●善光寺・親鸞聖人の銅像 –
越後に流された親鸞が逗留した善光寺。
残した「爪彫り阿弥陀如来」も意外に知らない!

善光寺・親鸞聖人の銅像善光寺本堂の南側に、老松を背に崇高な表情を見せて立つ「親鸞聖人の銅像」がある。右手には善光寺に捧げる松の小枝を持ち、左手には数珠を軽く握りしめている。美しいお姿なのだが、木陰にあるためか、参詣者の多くがその存在には気付かないことが多い。

善光寺は年間600万人以上の参詣者を集める全国的に知られた名刹。天台宗の大勧進と25院、浄土宗の大本願と14坊の寺院からなる。そこに、浄土真宗の開祖である親鸞の像があるのはなぜだろう。

それには、親鸞について少しだけ学んでおく必要があるかもしれない。

親鸞は、承安3年(11713)、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)に貴族・日野有範(ありのり)の子として生まれた。幼名は松若丸という。4歳の時に父を、8歳にして母を亡くしたため、9歳の時伯父の縁故で出家し、比叡山において念仏修行の道に入ることになる。

伝説によれば、出家前、京都青蓮院で慈鎮和尚のもとに得度(仏門に入ること)することになった時、慈鎮和尚が得度を翌日に延期しようとしたところ、9歳の松若丸が「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら)夜半に嵐の吹かぬものかは」と世の無常を詠んだという。

出家後は範宴(はんねん)を名乗り、20年にわたり比叡山で厳しい修行を積む。しかし、29歳になった親鸞はこれまでの修行によっても念仏者としての得心がいかず、叡山を下りて京都市内烏丸の六角堂で百カ日参籠(神社仏閣にこもって祈願すること)を行い、六角堂に祀られている救世(ぐせ)観音(聖徳太子の真実身として信仰されていた観音)を通して、日本仏教の祖と仰がれる聖徳太子に祈願したのだ。

善光寺・親鸞聖人の銅像満願となる5日前の未明、夢の中で観音のお告げにより、その明け方、堂を出た親鸞は、ひたすら南無阿弥陀仏を唱える専修(せんじゅ)念仏を説く法然上人を訪れ、念仏による衆生済度(すべての生物を救い悟りを得させること)を確信し、法然の弟子となる。

しかし、その後、念仏宗を禁じる旧仏教側からの弾圧により、法然は流罪に。親鸞も僧籍を離れ俗人にかえる「還俗(げんぞく)」の上、越後に流されてしまうのである。この地で妻・恵信尼を迎えた親鸞は、4年後に許されて常陸(現茨城県)に移り、60歳頃まで布教に専念した。元仁元年(1224)、親鸞52歳の時、主著「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」が完成。この年を持って浄土真宗開宗の年とされている。

親鸞の浄土真宗は浄土宗から生まれたものであり、阿弥陀仏の他力本願の信により往生成仏できるとし、妻帯を公然と認めたことでも知られる。親鸞とその門弟は、布教にあたり、広く浸透していた善光寺信仰と聖徳太子信仰を利用したともいわれている。

親鸞は越後国府に流されたが、常陸への旅の途中に善光寺にも参詣。100日間堂照坊に滞在したといわれる。今でも、仁王門前にある堂照坊の門にはそれを示す門札が掲げてある。

善光寺・親鸞聖人の銅像親鸞聖人の銅像の背後には経蔵があるが、ここから細い登り道を院坊駐車場に向かって歩くと、「親鸞聖人爪彫りの阿弥陀如来」を祀る小さな祠に出会う。親鸞が逗留した時に、爪で彫られたと伝えられている阿弥陀如来で、石にくっきりと如来像が刻まれている。昔から目に御利益があるといわれていて、目の病気快癒を祈る絵馬や千羽鶴などが供えられている。

源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府が開かれたあの時代、親鸞は善光寺で、一体、何を祈ったのだろうか。そう思って親鸞像を眺めると、遠い時代の渦潮が微かに見えてくるようにも思える。

善光寺
◆所在地 長野県長野市元善町491
◆問い合わせ ☎026-234-3591

長野県長野市長野元善町491

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