●如是姫像(JR長野駅前) –
長野市の玄関口に立つ如是姫像。
その優美な存在に気付かない人が増えている!?

駅前の不思議を旅してみよう。

駅前には、意外に知らない歴史が隠れている。

JR長野駅に降り立って西口広場へ。そこは国宝・善光寺への玄関口でもあり、大型ショッピングビルやホテル、デパートなどが林立。あわただしく発着する路線バスやタクシー、スクランブル交差点には激しい人の行き来が見られる繁華街だ。もちろん、渋谷や原宿には到底及ばないが、市内では一番の賑わいエリアであることには間違いない。

如是姫像その、すぐ目の前にある公園の一角に円形噴水があり、蓮の華をあしらった中央台座の上には、左手に香花を掲げたしなやかな体型のブロンズ姫像が立っている。夏場には冷たいしぶきを上げて噴水がゆるやかに弧を描く。

この姫は「如是姫」といい、長野市民なら誰もが知っている。いや、知っていると思っていた。ところが、最近の高校生や若い人たちに聞いてみると、ほとんどが「知らな~い」「だれなの?」という残念な答えが返ってくる。

まずいことに、この如是姫像は善光寺のある方角に向かって立っており、駅から出てきた人たちに背中を向ける形となっている。目の前に、何かわからない像が立っているが、それが何なのかは考えたこともない。あるいは、何か立っていたような気がする…。そんな人は、若い世代に限らず、意外にも中高年の間にも広がっている。

では、そもそも、「如是姫」とはどなたなのか?それを知るには、「善光寺縁起」を紐解かなければならない。

善光寺如来がいかに尊い仏様であるか、その仏様がどのように今の地(善光寺)に移って来られたのかを記したもの、それが「善光寺縁起」だ。

愛らしい大金持ちの娘が流行病に冒される。
もう助ける術がなくなったその時…。

如是姫像昔、天竺(インド)の毘舎利(びしゃり)国に月蓋(がっかい)長者という大金持ちがいた。立派な屋敷に住み、たくさんの蔵には宝物が溢れていた。なに不自由のない暮らし、子供がないことだけが不足だったが、長者が51歳になった時に初めて女の子に恵まれた。「如是姫」という名をつけ、それはそれは可愛がっていた。

しかし、月蓋長者はケチで、信仰心がなかった。お釈迦様が近くの大林精舎(だいりんしょうじゃ)で説教をなさっていたが、それすら聞きに行ったこともなく、お釈迦様が長者の家に托鉢(たくはつ)で来られた時も、何も差し上げなかった。

その頃、毘舎利国では悪い病気が流行し、如是姫もその病気にかかってしまう。いろいろ手を尽くしてみたが、日々重くなるばかり。ギバという名医にもかかったが、見放されてしまう。

この上は、お釈迦様におすがりするほかはないと、大林精舎へ行って「どうか、娘の命をお救いください」と涙ながらにお願いした。お釈迦様は教えて言った。

「ここからはるか西の方に極楽という世界がある。そこに阿弥陀仏という仏様がいらっしゃる。早く西の方に向かい、この仏様の御名を唱えなさい」。

屋敷に帰り月蓋長者は、西の方に向かい花や灯明などを供え、「南無阿弥陀仏」と10回唱えると、阿弥陀仏のお姿が月蓋長者の西の門の上に現れた。

御身の丈1尺5寸、左手は刀剣の印、右手は施無畏(せむい)の印を結び、光明を放たれた。その光が如是姫の枕元に届いたと思うと、不思議なことに、重い病がたちまち治ってしまった。

如是姫ばかりではなく、毘舎利国のすべての病人も全快したのだった。

というのが…「善光寺縁起」に出てくる月蓋長者の話。その後、これに感謝した長者は阿弥陀仏のお姿をこの世にとどめようと思い、一番立派な金である「閻浮檀金(えんぶだごん)」を竜宮城からいただいて帰る。それをお釈迦様に差し出すと、お釈迦様はこの金を鉢に入れお祈りする。すると、西方から阿弥陀如来が現れてその神々しい光が金を照らした。金は湯のように湧き立ち、阿弥陀様と同じ姿になった。長者は立派なお堂を建て、この仏様を安置して絶えず礼拝した。

如是姫像がたどった数奇な運命。

長野駅前に立つ如是姫像は、病気の回復を感謝し、善光寺の本尊でもある阿弥陀如来に香花を捧げ、礼賛している姿なのだ。

しかし、現在の如是姫像は実は2代目にあたる。初代の像は、明治41(1908)年「一府十県共進会」(産業振興の目的で農作物や工業製品を出品させ、一般に展覧する品評会)の開催にあたって、善光寺境内に建立されたといい、本堂西側の経蔵の前にあった。制作者は彫塑家の竹内久一氏で、今とは違い宝玉を捧げるように両手で持つ姿だったという。

しかし、この如是姫像には、流転の運命が待ちうけていた。

約30年間、境内に安置されていた姫像は、昭和11(1936)年、長野駅が仏閣型に改築されるのを機に、善光寺から駅前へと移されることになった。水盤を設けたのは、仏都を訪れる善男善女を清らかに迎えようという意味が込められていた。美術的にも優れていたといわれる初代は、全国的にも珍しい仏閣型駅舎の風景に調和し、観光客たちの話題にもなった。しかし、その如是姫像に、悲しい出来事が起こった。

太平洋戦争が激化する昭和19(1944)年、全国の銅製品などが軍に供出されることになったが、如是姫像も例外ではなかった。駅前の噴水から姫の姿は消え、台座の下は防空壕に変わった。

敗戦後の日本は、社会全体が凄まじい勢いで変わっていった。そんな中、市内の篤志家たちの寄付により、昭和23年、久しく駅前から消えてしまっていた如是姫像を再建することになる。戦争が終わり、ぽっかりと穴が開いてしまった市民たちの心にはあの優美で、希望の光を放つ「如是姫」像が必要だった。

新しい如是姫像は佐々木大寿(富山県)の作。柔和な表情としなやかな肢体の如是姫は、善光寺如来のおわす善光寺の方角を見つめ、自らの病気回復を感謝する。と同時に、その姿には、二度と再び戦争という悲劇を繰り返すことがないようにという「世界平和」への願いが強く込められているようにも思える。

如是姫の歴史を振り返った時、なんでもない駅前の風景が、ひときわ鮮やかに浮かび上がってくる。

如是姫像

長野駅(長野)

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

コメントフィード

トラックバックURL: http://gurunaga.com/wp-trackback.php?p=928